あまりに写実的すぎると、観る人の想像力の入る余地がなくなる。すなわち、芸術とは観る人を他の世界へいざない遊ばせるか、またなにかを感じさせるものだから。
たとえば、展覧会などでの写実的な絵は、人々になにか避けさせる傾向がある。
したがってそれをながめる人のために、自分自身の満足ではなく、想像力の入る余地を残しておかなくてはならない。
それは、また自身のためにも。
ただ単なる写実的な描写であってはならない。
むしろ、下手にならなくては。
K.S
おしなべて怠惰、欲情、富貴、雑談、大食にもとずく至福はない。何人も神が彼にこの地上で、貸し与えられた才能を、労働と汗とに用うべきである。
それが、耕地で働く農夫であれ鍛冶屋でも、労働者であれ鉱夫であれ、水夫であれ、医師であれあるいは神の御言葉を告げ知らせるものであれ、正しい仕方は、労働と創造行為と生産にある。
間違った仕方といえば何もせず無駄話に過ごすことだ。一人の人間を判断するには、その言葉によらず心情によるべきだ。
心情は業がそれに力を与えてくれる時のみ言葉を語る。
もし君が一冊の書物を書くように求められたなら、その機会を逃してはならない。たとえ、60年70年いやさらに長く時間がかかろうと君がその着想をうちにいだき君の思考の中で熟慮するならばただちにこれに突進する必要はない。
その考えはいつまでも、君の中に留まっていることはなく、こどもが母親の肉体から生まれるように、必ず日の目をみるであろう。
このように生まれたものはよく成熟したものであり、決して遅すぎることはない。
忍耐せよ。そしてすべてのとげの中に穂をみることはするな。待つのだ。
時至れば、すべてが君の中から現れてくる。
君から生まれるべきもの、君の中にあるものは必ず現れでる。
そして君は、それがどうしてどこから来るのか、そしてどこへ行くのかを知らない。
最後にそれを、君は君がまだ学ばずまだ見たことのないものの中にみいだす。
パラケルスス
人間はその天の果実、すなわちその業によって知られる。
その業において人間が神のうちを歩むかいなか自然の子であるか神の子であるか「古い」誕生の子であるか「新しい」誕生の子であるか、祝福されて生まれたものか呪われて生まれたものか、病弱に生まれたか、剛健に生まれついたか選ばれたものに属するか選ばれざるものに属するかが顕らかになる。
このような、認識が必要だ。
いや、きわめて必要なのだ。
もし、われわれが初めに誤って歩みだすならば、中間点ではさらに
そして、終点においてははるかに迷ってしまうからである。
収穫の時期は、われわれに必要なものをすなわち収穫するのに充分熟した作物、刈り入れ人夫、運送人をもたらしそれぞれが、そのふさわしい時期に現れることになる。
あらゆる果実が、苺の実と同時に熟すと誤って思いこむ。
葡萄の摘みとりにいって何もしらない人だ。
それぞれの手職は、二重のものである。
ひとつは、人が人間から学ぶもの、もうひとつは精霊から学ぶものである。
硝子造りは、これを他人から学んだ人にとって技術ではない。
しかし、これを初めて自ら見出した人こそ、とりわけ技術者としての賞賛をうけて当然である。
なぜなら、彼のうちに人は精霊のはたらきを感じとるからである。
しかし、人間から学んだ以上のことができない人には精霊の働きを感知することができぬ。そのようなことは人間だけからは不可能なのである。
すべて彼の知恵、彼の理性、そして彼の中にあるすべてのものは新しいものをみつけだすことができない。いわんや、これを完成にもたらすこともできない。
最初の師匠から学んだ人々は直接人間から学んだのであるが彼らも霊によって生きている。
何故なら霊はかの人々に吹きこまれ、かくて最初の人から現在の人々まで下ってきたのである。
こうして神の霊は、この地上で人間の中において勝利するのである。
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このページでは少し堅苦しいかもしれませんが、芸術についてお話ししております。