ピカソと並んで、有名なスペインを代表するシュルレアリスムの画家。
絵画だけではなく、映画制作、舞台装置、デザインなどさまざまな分野で豊かな才能を発揮した人物。
ダリ流奇抜なパフォーマンスで、彼に付けられたあだ名は、偏執狂、ドル亡者、ファシスト、ナルシスト、マスコミの寵児などさまざまなあだ名がある。
ほとんどが、ダリ自身による奇行や過激な行動、パフォーマンスによってつけられたもの。
「天才を演じ続けよ。そうすれば、お前は天才となるのだ。」
狂気を誓うことと、あるいは狂者と思われることで、天才とみなされようとする意識があった。
特異な芸術論を唱え、芝居がかった講演も行っているがダリ自身が、天才画家としての偶像を作り上げようとしていたからに他ならない。
このようなことから、ダリの真実の姿は隠されることになり、未だに謎の多い画家。
サルバドール・フェリーぺ・ハシント・ダリ
1904年5月に、スペイン フィゲラスの裕福な家庭に生まれる。
私は、ガウディの生命力が好きだ。
彼は指先と舌先に頭脳を持っている。それは、味覚神経である。
彼の建築は、食い道楽の感覚の総体を具現することを欲する。
それは、人間の欲望で肉づけされた観念のように、私は思える。
ガウディの有機的で奇抜な造型が、ダリの内面にある建築観念、建築に影響を与えた。
ダリにとってピカソは重要な人物。
ピカソは、おそらく父についで私が最もひんぱんに考えた人間である。
私が、バルセロナにいた時、またパリにいた時彼は、私の灯台だった。彼の眼は、私の指標であった。
ピカソの作品を観て心に残るものは、なにかとよく聞かれる。なんという質問だろう!
私自身の天才の産物を明るみに出させてくれるであろうすべてのものだ。
ダリはすでに、6才の時に写実的な風景画を描いている。12才の時にフィゲラス学院に入学。
そして14才の頃にはフィゲラスの地方美術展に出品する。18才の時王立サン・フェルナンド美術学校に入学する。
前衛美術を表面的にしか考えていない教え方に、教授からはなにも学ぶことはなく、自分の真の教授はカダケスの白い家々と自然が創りだした壮大で神秘的な風景であった。
と、いった。
(注)カダスケスとは、ダリの父親の別荘。
ダリの才能をいち早く発見し、パリのシュルレアリスト達に紹介したのが、ダリと同じカタローニャ出身の画家ジョアン・ミロ。
画家にさせるようダリの父親を説得し、ダリは1927年にパリに行くことになり、ピカソに謁見した。
ミロはその後も、援助し続けた。しかし、ダリは彼について「ミロは、カタロニアの百姓がみなそうであるように、才能豊かなカタローニャの百姓であった」
・・・と、評している。
1929年 映画「アンダルシアの犬」
これが、ダリの初めての映画作品
アルフレッドヒッチコック監督の「白い恐怖」
1934年頃 家具内装などインテリアデザイン
代表作 メイウェストの唇のソファ(ソファ全体が唇の形)
1941年 舞台装置、衣装デザイン
ロシアバレー団が、ニューヨークメトロポリタン・オペラ座で上演
した「タイトル=迷路」時に、担当した。
その他ガルシア・ロルカ、ポールヴェルレーヌなどのバレーの演出、舞台装置、衣装デザインを手がける。
1946年 ハリウッド ウォルトディズニーと実写を組み合わせた映画の制作を手がけた。これは、未完。
商業デザイン
ロリーポップスキャンデー「チュツパチャプス」の包装紙のデザイン。
ダリ70才の時、1974年開館。
かつて、劇場だった建物をダリ自身が創意をこらしてダリ的脅威に満ちたミュージアムにした。
国鉄フィゲラス駅カタルーニャ広場を通ったところにある。ここは、ダリらしい特異な外観からすぐにわかる。
巨大な卵を屋上にのせ、壁面には、無数のパンをかたどったオブジェが貼りつけてある。
1968年 廃墟となっていた城を、見まがうような大邸宅にした。ジローナにある。フラサ駅から、歩いて1時間ぐらい。
(現在は、ダリ財団が管理)
1989年1月 ダリは、プボル城で84年の生涯を閉じた。
死の直前、小さな紙片に「Curtain」=幕
と、一語書いた。