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レンブラント-2

1632~1642年(10~30代)

多面性、視野の広さ、創造的探求の多様さはすでに初期のころに現れている。
そして、大政治家のコンスタンチ・ホイヘンスに高い評価を得る。この頃ライデンから、アムステルダムに移る。
1632~1642年の10年間は、レンブラントの最も幸福な時代であった。同時代の人々から正当に評価され、若い肖像画家の名声確立を促した。
当時なくなったばかりの市長の娘、サスキアとの結婚により富裕と陽気さが若妻とともに彼のもとに訪れた。
まさに30代は彼にとって栄光の時期であった。
肖像画家としてだけではなく、宗教的なテーマ、神話的なものをテーマにしたものも、躍動性あふれる構図で描いている。

「夜警」

後年、高い評価を受けた代表的とも言える「夜警」は、この絵を依頼した人々にとってはキャンバスの上に自分が不朽に描きとどめられているはずであったのに、色あいや、意外さに満ちた光のアクセントの配分、独特な構成により各自がお金を払ったのに、目立たなかったりで注文主たちは満足することができなかった。
そのような訳でオランダ絵画史上最大の傑作はその当時は、正当な評価は全く受けられなかった。
こうしてレンブラントに対する世間の態度は一変したのであった。

(補足)「夜警」は、当時「群像」という絵画の描き方で、複数の人々が画家にお金を払って、支払った人たちはその作品に集合で描いてもらい1枚の絵として仕上げる方法です。

1642年以降

彼の人気は、急速に衰える。この年、若妻サスキアが亡くなる。
この頃から、荒々しい躍動性や熱情から内面的に構図は単純化する。そして、光の意義はますます強調される。
それまでの10年間に比して、肖像画の注文が少なくなっているのは、人気の下落だけでなく、それ以上にレンブラントの内面的な発展過程が原因であった。

30~40年代

30~40年代は風景画や、風景版画が数多く制作されている。
力の蓄積期である40年代はこの偉大な画家の人間の内面的形象の最も完全な顕現の追求に捧げられている。

50年代初頭

レンブラントにとって特別実りの多い時期であった。静物画や静物版画を多く描いた。

1656年

債務におちいり、家や財産を失った。
後に伴侶となるヘンドリッキと息子のティトウスがこの窮地を救ってくれた。
この二人によって生活苦から逃れられ芸術活動ができるようになった。

「ダビデとウリア」

晩年の歴史画や宗教画ではすべてが登場人物の心の状態の描写に集中している。
エルミタージュ美術館所蔵のすばらしい絵「ダビデとウリア」はその場面の表現力を強めるため、あたかもその場面の精神的二キスを描いたのごとき観がある。
登場人物の心の葛藤が観賞者の心をゆすぶるのである。

1661年

アムステルダムの新市庁舎に飾る絵の注文を受ける。だが、彼の大作はいったん飾られたものの返却されてしまった。その原因は想像に難くない。
おそらくその絵に現れている平民性と簡潔さが注文主達からは気に入られなかったのであろう。
当時の大ブルジョワジー的政策が絵画においても、美化と虚飾の傾向が強かった。

「行政官たちの肖像画」

レンブラントの描いた最後の傑作と言われている。晩年の絵には深い叡知が息づいており静かに立っている人物は威風堂々としている。

1664~1669年

1664年 妻のヘントリッキェが、1668年には息子のティトウスが亡くなる。
画家は孫娘をかかえ一人きりになるが、仕事を続け1669年に描いた自画像は深く人の心に透徹する悲しみに満ちたまなざしなど、老年のしるしが呵責なくあばかれている。

1669年 レンブラントが亡くなる。
彼の死はほとんどの人の目にとまらなかった。
教会の帳簿に書かれた埋葬に関する簡単な書きこみは次の通りである。

「1669年10月8日、火曜日、ドムホフと向かいあうローゼンクラート通りの画家、レンブラント・ファン・リーン」

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